(前編の続き)
スコットランドの「労働者階級」からフットボールの世界へ飛び込み、選手時代には栄光と挫折の両方を経験。
32歳の若さで監督へ転身したファーガソン氏は、「徹底的な反復練習」をポリシーとしたチーム作りで着実にステップアップしていきます。
1978年、ファーガソン氏は「アバディーン」の監督に就任。
「セルティック」と「レンジャーズ」という2強が支配するスコティッシュ・プレミアリーグで、アバディーンは中位に位置していました。
ここでもファーガソン氏は基本技術の反復練習に注力し、前線からのアグレッシブな守備で主導権を握るスタイルを構築します。
アバディーンで出会ったアシスタントのアーチー・ノックス氏はファーガソン氏に新たな気付きを与えてくれました。
それまでピッチを走り回って指導にあたるスタイルをとっていましたが、ノックス氏に「ボスが何でも仕切りたがる。一歩引いて全体を見渡して指導すべきだ」とアドバイスを受けて指導方針を転換。
アバディーン時代に試合の流れを読む力や「観察力」を養ったことが、後に「ファギータイム」とも呼ばれる驚異の粘りにもつながっていったといえます。
1年目を4位で終えてチームの下地が整ったアバディーンは2年目にリーグ優勝。
6年目の1983−84シーズンにはセルティックとレンジャーズ以外で初めてリーグ優勝とカップ戦優勝の二冠を達成しました。
ファーガソン氏は1985年にスコットランド代表のアシスタントコーチに就任。
巨匠と呼ばれたジョック・スタイン監督を支え、巨匠が病に倒れた後は代わりに指揮を執ってチームをワールドカップ(1986年メキシコ大会)出場に導きました。
スコットランド代表での責務を終え、ファーガソン氏はいよいよマンチェスターへと乗り込みます。
アバディーン在籍中にはレンジャーズ、トッテナム・ホットスパー、アーセナルなどからオファーをもらっていましたが、ファーガソン氏は拒否。
しかし、新たなチャレンジをしたいという気持ちが高まり、アバディーン会長のディック・ドナルド氏へシーズン終了後に退任したい意思を伝えると、
「君が、アバディーン以上の仕事を考えるべきものはひとつしかない。マンチェスター・ユナイテッドだ。君がほんとうにチャレンジを望むなら、フットボール界一のクラブでなければいけない」
そう助言を受けていたそうです。
1986年のシーズン途中(11月)に低迷したチームから要請を引き受け、19年間リーグ優勝から遠ざかっていたマンチェスター・ユナイテッドの監督に就任しました。
彼は盟友のアーチー・ノックス氏とともに2つの改革に取り組みます。
選手に対しては「飲酒習慣の根絶」によって規律をもたらすことを優先。
そして、より力を入れたのは組織再編です。
成績が振るわない状況でチームは選手の「売り買い」を頻繁に行なっており、平均年齢もやや高めの陣容に問題があると感じたファーガソン氏は育成組織の強化方針を打ち立てました。
地元・マンチェスターを中心にイギリス各地へスカウトを派遣し、有望な選手をユースチームに迎え入れ、選手構成の新陳代謝を着々と推し進めていきます。
最初の3年間は結果が出ずに一時は解任論も浮上しましたが、1990年のFAカップ優勝で状況が好転します。
ライアン・ギグスやネヴィル兄弟、ポール・スコールズ、ニッキー・バット、そしてデイビッド・ベッカムなど「ファギー・ベイブス」と呼ばれる選手たちがトップチームで頭角を現し、1992-93シーズンに26年ぶりとなるリーグ優勝を果たしました。
ユース出身選手たちが中核となり、シーズンを追うごとにチームは成熟。
1998-99シーズン、マンチェスター・ユナイテッドはリーグ優勝、FAカップ優勝、そしてUEFAチャンピオンズリーグ優勝という"トレブル"を達成しました。
中でも伝説的なのは「カンプ・ノウの奇跡」と呼ばれるバイエルン・ミュンヘンとのチャンピオンズリーグ決勝です。
立ち上がり早々に失点したマンチェスター・ユナイテッドはリズムをつかめないまま0−1で後半を迎え、シェリンガムとスールシャールを投入。
バイエルンの攻撃の中核であるツィークラーとバスラーは途中交代することが多いという情報を得ていたファーガソン氏は、予想通り2人がベンチに下がるとチームへ猛攻を仕掛けるよう指示。
後半45分にベッカムのコーナーキックからシェリンガムが同点弾、その2分後に再びコーナーキックを得てスールシャールが奇跡の逆転弾を叩き込みました。
当時の登録メンバー30人のうち15人が25歳以下で、ファーガソン氏の改革が実を結んだ瞬間でした。
手塩にかけて育てた選手たちとともに、1995年から2001年の6年間で5度のリーグ優勝という黄金時代を過ごします。
1990年代後半からプレミアリーグに激動の時代が訪れます。
スカイスポーツと巨額の契約を結び、1995年には「ボスマン判決」が下されました。
「契約が満了した選手は移籍金なしで移籍できる」「プロサッカー選手にもEUの労働規約(域内の移動が制限されない)を適用する」という選手の訴えが認められ、この判決を機に選手の移籍が活発化。
制度改革初期の最たる成功例がフランス人監督アーセン・ベンゲル氏を迎え入れたアーセナルです。
彼らはティエリ・アンリやパトリック・ビエラなどフランス人選手を次々と獲得して魅力的な攻撃的サッカーを展開し、2003-04シーズンにはリーグ無敗優勝を成し遂げました。
さらにはロシアの富豪・アブラモビッチ氏がチェルシーを、UAEの王族マンスール氏がマンチェスター・シティを買収して国内外の有力選手をかき集めていきます。
プレミアリーグは国際化が進むとともに競争レベルが急速に高まっていき、2000年代前半にマンチェスター・ユナイテッドは苦戦を強いられました。
ファーガソン氏は世界中にスカウト網を張り巡らせて新たな才能の発掘に注力。
そして2003年8月、クリスティアーノ・ロナウドの獲得に成功します。
アシスタント・マネージャーを勤めていたカルロス・ケイロス氏の提言でマンチェスター・ユナイテッドはポルトガルのスポルディングCPと提携し、お互いのコーチを交換するなど交流を行なっていました。
「ユースチームにとんでもない選手がいる」という話を聞いていたファーガソン氏は、2003年のオフシーズンに開催されたスポルディングCPとの親善試合でロナウドと初対面。
衝撃的なプレーを目の当たりにし、ハーフタイムに入ってすぐさまスポルディングCPのCEOと会談して「あの少年が契約書にサインするまでイングランドに帰らない」と宣言したといいます。
翌日には代理人や家族と面会し、移籍金(契約違約金)1,224万ポンド(当時のレートで約24億円)で合意に至りました。
その後6年間でロナウドはリーグ優勝やUEFAチャンピオンズリーグ優勝などチームの復権に大きく貢献し、8,000万ポンド(約129億円)という巨額の移籍金を置き土産にレアル・マドリードへと移籍しました。
勝利を追い求め続けるファーガソン氏を突き動かしていたのは「敗戦の悔しさ」でした。
2000年代に台頭したアーセナルやチェルシーから王座を奪還した後、彼らの前に立ちはだかったのが"お隣"マンチェスター・シティです。
2011-12シーズンに両チームは激しい優勝争いを繰り広げます。
マンチェスター・ユナイテッドはリーグ戦のダービーマッチでダブルを喰らい(ホーム戦で1-6、アウェイ戦で0-1といずれも敗戦)、終盤に来て勝ち点で並ばれてしまいます。
そして最終節、マンチェスター・シティは後半ロスタイムの劇的な逆転勝利で44年ぶりのリーグ優勝。
結果的にはホームでのダービーマッチ惨敗による得失点差で優勝を逃したことになり、ファーガソン氏は翌シーズン「ユナイテッドは全試合で勝利しなければならない」と選手たちを激しく鼓舞し続けたそうです。
悔しさを胸に臨んだ2012-13シーズンは圧倒的な強さで首位を独走。
チーム通算20回目の節目となるリーグ優勝を果たしました。
シーズン中に奥さんの妹が亡くなったことを受けて「家族と過ごす時間を増やしたい」という考えに至ったファーガソン氏は、このシーズンをもって監督業から引退することを決断します。
常に何らかのタイトルを獲得してきた印象のあるファーガソン氏ですが、監督人生の通算勝率は60%程度でした。
晩年になっても試合に敗れた日はまともに眠ることができなかったといいます。
世界最高峰のリーグでたくさんのトロフィーを勝ち取った男は、「数多く敗れた男」でもあるわけです。
「バスは走り続けている。ぐずぐずするな。置いていかれるぞ。」
ファーガソン氏は周囲にこう訴えかけて勝てる組織を磨き上げてきました。
彼は選手時代から振り返っても具体的な数値目標をほとんど立てなかったそう。
監督生活最後の15年間はクラブとの1年契約を毎年更新し、「1つでも多くのタイトルを獲得する」ために戦い続けました。
1980年以降、現在までダウ構成銘柄(ダウ工業株30種平均)に残り続けているのはわずか6社だけ。(IBM、スリーエム、Merk、P&G、ユナイテッド・テクノロジーズ、エクソンモービル)。
この数字からも、ビジネスの世界でトップの座を守り続けることがいかに難しいか、ということが伺えます。
ウェールズ出身のセコイア・キャピタル「伝説の投資家」マイケル・モリッツ氏は、27年間に渡ってチームを率い常勝軍団を創り上げたアレックス・ファーガソン氏へのインタビューから得た「偉大なリーダー」と「優秀なマネージャー」の違いを3つ挙げています。
1つは、独創的なアイデアを受け入れる「器」。
ユースから昇格したばかりの選手を大胆に起用し、「キング」と呼ばれたエリック・カントナやクリスティアーノ・ロナウドら才能豊かな選手たちをチームに融合してきました。
組織のライフサイクルを熟知し、「スターと縁の下の力持ち」「ベテランと若手」「生え抜きと外国籍助っ人」といったバランスを絶妙に調整してきた点にこそファーガソン氏の真骨頂があるといえます。
続いて挙げた「こだわり」は、周囲の雑音や逆境をはねのけ戦い続けるエネルギー源です。
長期にわたってチームを指揮し続けたファーガソン氏ですが、結果が出なかった時期にマスコミは何度も解任論を騒ぎ立てています。
それでも彼は、最重要視する「練習」のルーティンを崩さずに一貫性を持って取り組み続けることで選手たちからの信頼を掴んで離さなかったのです。
最後に「対人力」。
ときには優しく寄り添い、ときには激しい口調で選手を鼓舞し、「限界+5%」の力を引き出すコミュニケーション術でチームに"勝者のメンタリティー"を叩き込んだのでした。
ファーガソン氏は"ヘアドライヤー"とも呼ばれる激昂っぷりが有名ですが、実はビハインドで迎えたハーフタイムや敗戦直後には「カッとなったことはほとんどない」とのこと。
逆に何点かリードしている局面では、
「タイトルを10個獲るまでは自分を真のユナイテッドの選手だと思うな」
「ライアン・ギグスと肩を並べるまでは、ユナイテッドにふさわしい戦士になれたとな思わないことだ」
と油断や慢心を許さない空気を作らないために"ヘアドライヤー"を発動していたそうです。
ファーガソン氏の根源にある「信念」や「長期的なビジョン」についてモリッツ氏は、アップルを創り上げたスティーブ・ジョブズを筆頭とするシリコンバレーの起業家たちと共通項を見いだしています。
・参考
『人を動かす』(アレックス・ファーガソン/マイケル・モリッツ)
『マネージング・マイ・ライフ』(アレックス・ファーガソン)
『アレックス・ファーガソン自伝』(アレックス・ファーガソン)
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